vol.29 フィリップ・ハルスマン: A Retrospective

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藤田 賢二 先生

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 皆さんは、フィリップ・ハルスマンという人物をご存知でしょうか。彼はアメリカの雑誌「ライフ」の表紙を100回以上担当した写真家で、1950年代から60年代にかけて活躍し、彼の撮ったいくつかの写真はアメリカの記念切手にまで使用されました。芸術家サルバドーレ・ダリが3匹の猫と一緒に宙に舞っている有名な写真は、どこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。

 

 今から10年以上前、当時大学生だった私は夏休みを利用してアイルランドに語学留学へ行き、その帰り道にロンドンとパリに合わせて2週間ばかり滞在しました。そしてロンドンに滞在していた時に、彼の写真と巡り合ったのです。大学生の1人旅行ですから、当然お金が贅沢につかえる訳でもありません。特に当てもなくロンドン市内を歩き回り、(入場料が無料という理由で)ふと入ったナショナルポートレートギャラリーで行われていたのがハルスマンの回顧展でした。何の予備知識も、期待もなかったが為に私が受けたカルチャーショックは大きなもので、全身の力が抜けるような感覚を味わったことを今でも覚えています。そして、1万円近くしたこの写真集を何の迷いもなく購入してしまいました(宿に戻ってから若干の後悔はしましたが)。

 

 ハルスマンは、ポートレイトを多く残した写真家です。彼は人間の表情に関心を持っており、また彼の写真の特徴もその表情にあります。被写体は芸術家、俳優、ミュージシャン、政治家など多岐にわたっており、その全ての写真からはその人物の思想、価値観、歴史を深く感じることができます。その中でも私が特に感銘を受けたのは、「JUMP」と呼ばれるシリーズで、これはその名の通り被写体がジャンプしている瞬間を撮影したものです。跳び方、表情などはそれぞれ違っていますが、みな生き生きとした表情を見せています。両足を大きく広げ、銀幕では見せない無邪気な笑顔を見せるオードリー・ヘップバーン、妖艶さというよりも、女性としての健康的な活力に満ちた表情のマリリン・モンロー、まるで大衆を前に演説をするかのように両手を広げ、真剣なまなざしを見せるリチャード・ニクソン、右手を空へ突き上げ、自分の行ったことを神に突きつけるようにまっすぐ上を見ているオッペンハイマー、歩んできた歴史を確認するかのように、かたく手をつないでいるウインザー公爵夫妻。それは、私たちが映画や伝記、教科書で見ることができる彼らの表情とは全く違うもので、「彼らがこの時代には一人の人間として生きていた」ことを強く感じさせるものです。

 

 残念ながらハルスマンの写真集は日本では発売されていません。興味のある方は、インターネットで検索をすれば彼の写真のいくつかを見ることができますので、是非ご覧になってください。