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其の28 意外と知らなかった宇都宮大空襲

この記事の先生

鈴木 克美 先生

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 8月15日、69回目の終戦記念日を迎えました。

 この時期になるとマスメディアなどでよく放送されるのは、3/10の東京大空襲、6/23の沖縄慰霊の日、8/6の広島原爆の日。8/9の長崎原爆の日、そして8/15日の終戦記念日です。

  わたしもそれらの日についてはテレビや本などでいろいろと勉強しており、実際に広島・長崎・東京都内の戦争にまつわる施設などを訪れては戦争の犠牲になった御霊にお参りをしています。

 特に沖縄については唯一の地上戦であったということ、多くの地元住民を巻き込んだとても悲惨な戦いであったことなどから、何度も足を運んで今なお残る戦争の傷跡をたどり、いろいろと調べたりもしています。

  そんな折、わたしは重大なことに気づきました。そのきっかけとなったのは、あのスタジオジブリの宮崎駿監督が4歳のころ、たまたま宇都宮に疎開していて、そこで運悪く空襲に遭い「その経験が後の人生や作品に大きな影響を与えた」とご本人がおっしゃっているということを知ったことでした。

  わたしは幼いころから第二次世界大戦に関心があり例えば“特攻隊”について調べるために鹿児島の知覧まで出向いたこともあるのに、肝心の生まれ故郷の宇都宮については、両親から話を聞くばかりで自分では何一つ勉強をしてきませんでした。そこでこの夏、わたしは宇都宮大空襲についてできる範囲で調べてみようと思いました。

  今回は短時間ではありましたがわたしが調べた“宇都宮大空襲”について書きたいと思います。

 1)宇都宮が空襲に至るまで

 宇都宮には日露戦争以降軍需拡大により編成された陸軍第14師団司令部が常設され、その配下の部隊も含めると総勢10,000名を超える軍関係者が常時駐屯していました。そこでそれらの人々を顧客とするサービス産業が栄えバンバを中心に市街地が発達しました。

 また、中島飛行機をはじめとする軍需産業の誘致にも成功し、宇都宮は“軍都”と呼ばれるようになりました。

  第二次世界大戦も末期となると、硫黄島の陥落により日本本土の制空権がアメリカ軍に奪われ、そこからアメリカ軍の長距離爆撃機による空襲が始まりました。攻撃目標は、日本軍の施設や軍需工場でしたが、一方で東京大空襲などの日本の中枢都市への攻撃も開始されました。

 しかし、それでも日本軍は本土決戦の方針を崩さなかったため、アメリカ軍は攻撃目標を中小都市の中心市街地にまで広げ、その結果宇都宮も空襲を受けることとなったのです。

 2)宇都宮への空襲

 宇都宮が初めて空襲を受けたのは昭和20年2月10日です。ただしこれは群馬の施設を爆撃した帰りに残っていた焼夷弾が旧平石村の雷電神社に落下したもので、本格的に宇都宮を標的にした爆撃は2月16日が最初です。その後計13回最後の爆撃は8月13日でした。

  なんと言っても最大の空襲は7月12日午後11時19分から開始された、俗に言う“宇都宮大空襲”で一般市民の住む市街地(宇都宮中央小学校を中心に半径1.2kmの円内)を狙ったものであることが明らかです。

 この空襲による死亡者は620名以上、負傷者1,128名以上、現在のJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間はほぼ壊滅状態となりこの空襲によって市民は町並みや歴史遺産などを焼失されただけでなく、その後長期にわたって市民の心身に深い傷跡を残しました。

 3)戦争体験の継承

 戦後宇都宮も他の都市と同様復興を遂げるわけですが、もっとも大切なのは、それらを含めて「いったい何があったのか」戦争の真実を後世に伝えることではないでしょうか?実際、わたしはこういった事実を断片的に両親から教えられたことはあっても、学校などで“平和教育”として教えられた記憶がありません。

 最近は高校の修学旅行などで、沖縄の“ひめゆりの塔”などを訪れる生徒さんが増えたと、以前沖縄に行ったときに現地のガイドさんから聞いたことがあります。これはこれでとてもすばらしいことだと思います。であるならば、まずは自分の生まれ育ったふるさとについて次世代の子供たちにもっともっと伝えるべきではないでしょうか?

  宇都宮で空襲の記録に乗り出したのは、昭和48年宇都宮高校の1年生が文化祭で「宇都宮大空襲」という展示を出展したのが初めてだと言われています。その翌年には「宇都宮市戦災を調査する会」後の「宇都宮平和祈念館建設準備会」が発足、記録だけでなく昭和50年からは「空襲展」を毎年開催しているそうです。

 また、空襲犠牲者の慰霊として、市営北山霊園内に「宇都宮市慰霊塔」および「無縁供養塔」が建てられ供養されています。また、意外に知られていないのが、有名な“大谷平和観音”は一個人の鎮魂の念から生み出されたということです。

  宇都宮でもいろいろな方法で、戦争という悲惨な出来事について後世に伝えようとしています。しかし、本当に二度と戦争を起こさないためにはそういったいわゆる有志の方たちの力にばかり頼っていてはだめなのではないでしょうか。わたしは今こそ“教育”の力が必要なのではないかと考えます。

 そもそも、戦前戦中の“教育”が子供たちを戦争に向かわせたと言っても過言ではないでしょう。とするならば、子供たちを戦争に向かわせないのも“教育”ではないかと思うのです。

  戦後、マッカーサー連合軍総司令官は日本の戦争理由を「資源の乏しい日本が輸入規制により包囲され、何百万という国民が失業に陥ることを恐れて行った安全保障だった」と証言しています。

 日本において資源が乏しいのは今も変わっていません。さらに言えば、戦後生まれで初の総理大臣となった安倍晋三さんはご承知の通り“集団的自衛権の憲法解釈変更”を閣議決定し、さらには“憲法改正”にも着手するのではという懸念も残されました。

 また、今後の交渉に期待したいところですが依然として日本は近隣諸国との関係が非常に危ない感じになっています。

  わたしはこの状況を見ると、昭和30年に当時の経済白書が謳い、多くの人々に希望の光を見せた「もはや戦後ではない」という言葉が頭に浮かびます。正直今の日本はあのころとは逆に「これからが日本の戦前だ」と日本国民だけでなく近隣諸外国の人たちに思われても仕方がないのではと考えます。

  もちろん戦後69年間平和国家を保ってきた日本がそう簡単に戦争をすることはないでしょう。

  戦争を体験された方々がかなりのご高齢となった現在、実際の体験談を学校の授業の一環として子供たちに聞かせることや、先生方が研修などを通してそういった知識を身につけ、それを子供たちに伝えていくことなど、あらためて“平和国家日本”について子供たちに継承すべき時期が来ているのではないでしょうか?

  せめて毎年7月12日にはそういった行事などを学校などで設けてみてはと強く思います。